この問いに対する答えは、人により様々。 「学問」や「知」のことを語っている本に書かれている言葉を、いくつか紹介するので、 気になる本があれば、ぜひ手にとって読んでいただきたい。
学問のすすめ 福澤諭吉 斎藤孝=訳 ちくま新書 2009-02-09
この人を知らない日本人はいないと言ってもいいぐらい有名な、福澤諭吉氏の言葉からご紹介。
しっかり学問をして物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となる、ということだ。
一生懸命にやるべきは、普通の生活に役に立つ実学である。
学問とは広い言葉で、精神を扱うものもあるし、物質を扱うものもある。 修身学や宗教学、哲学などは精神を扱うものである。 天文、地理、物理、化学などは物質を扱うものである。 いずれもみな知識教養の領域を広くしていって、物事の道理をきちんとつかみ、人としての使命を知ることが目的である。 知識教養を広く求めるには、人の話を聞いたり、自分で工夫をしたり、書物を読むことが必要だ。 であるから、学問をするためには文字を知ることはもちろん必要だけれども、むかしの人が思っていたように、ただ文字を読むことで学問だと思うのは見当ちがいである。
実生活も学問であって、実際の経済も学問、現実の世の中の流れを察知するのも学問である。 和漢洋の本を読むだけで学問ということはできない。
信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要なのだ。 学問というのは、この判断力を確立するためにあるのではないだろうか?
学問のしくみ事典 [監修]吉村作治 [著]VALIS DEUX 日本実業出版 1996-01 エジプト考古学者 吉村作治氏の言葉。
そもそも学問というと、「むずかしいもの」「面倒くさいもの」「厄介なもの」と普通の人はそれだけで身構えてしまう面があります。 それはきっと学問との出会い方に問題があったのだと思うんです。 その点、ボクの場合は学問ととても幸せな出会い方をしたといえます。
実は考古学って、歴史、美術、建築、宗教、民俗学・・・など、さまざまな要素が複合的に絡み合って形成されている学問なんです。 だから、好奇心を持っていろんな勉強しておくことが決してムダにならない。 ムダにならないどころか大変な力になるんです。 こんなボク自身の経験からいえば、学問するということは<好奇心の成就・達成に喜びを見出すこと>ひとことでいえばこれに尽きます。
学問は誰にでもできます。 不思議に思ったこと、疑問に思ったことを問い学ぶのが学問です。 では誰に学ぶのかというと、自らに問うのです。 問うということは調べることです。 調べるということが学ぶことになるのです。 受身ではなく、能動態でなくてはならない。 そして、ひとたび結論が出れば学問することが面白くなる、そのプロセスを楽しむことにまた学問があるのです。
何度も挑戦する。 この挑戦し続けることそのものが、学問なのです。 私はつねづね学問を”楽問”と呼んでいます。 なぜなら、学問を追究する心こそが、人生の楽しさを左右するからです。 学問とは結局、人生を楽しく生きるための方法なのかもしれません。
新・学問のすすめ 鷲田小彌太 マガジンハウス 1997-06 哲学者 鷲田小彌太氏の言葉。
高度な知識や技術が必要な時代、学問をしないと、いい仕事に就くことはできない。 だから、学生時代に学ぶだけでなく、仕事に就いてからこそよく学ぶ必要がある。
高速で変化する時代、終身雇用制がやみ、誰もが転業、転職にさらされる時代、一つの専門を修めて一つの仕事に身を任せるだけでは、まったく不十分だ。 複数の専門を準備する、あるいは、さまざまな変化に対応可能なより広い教養を持つ努力を欠かすことはできない。 しかも、この事態を、受け身に、否定的な過程としてではなく、能動的に、自分のなかに新しい能力を発見し、新しい人生を生きる喜びを獲得する過程として、受けとめたいものだ。
学問をすること、学ぶこと自体が、仕事と人生に不可分であるのみならず、仕事をする喜び、生きる楽しみと不可分に結びつく時代を、今、日本人としての私たちが生きつつある
新・学問のすすめ 阿部謹也 日高敏隆 青土社 2014-01-23 ドイツ中世史学者 阿部謹也氏の言葉。
ぼくの先生が昔、「分かるというのはどういうことか」という話をしてくれて、それは非常に印象が強かったんですけど・・・。 これは後で分かったことなんですが、ソクラテスが同じことを言っていましてね、「分かるということは、それによって自分が変わることだ」と。 「自分がまったく変わらないのであれば、それはただ知ったというにすぎない。 しかし、なにかを知っていて、それによって自分が変わるのは、分かったということだ」とその先生は言うんですね。 これは大変なことなんです。 何かを知ったことによって、「ああ、そうか」と思ったときに、実際に変わる可能性が出てくるわけですよ。 そういう風に考えると、学問というのは非常におもしろいし、緊張を要することで、そういう学問ができないといけないのだろうとは思います。
やはり学問の根本にあるのは、自然科学も人文社会科学もみんな含めて、人間ですよね。 「人間の研究」ということになるわけで。
それが学問の根本にあるのだということがもう少し深められていけば、いわゆる自然科学と人文社会科学の区別もなくなってくると思います。
学問の力 佐伯啓思 ちくま文庫 2014-12-10 社会経済学・経済思想史学者 佐伯啓思氏の言葉。
学問とは、さまざまな観察の結果でてきた知識というより、そのような知識を抽出しようとする態度や関心そのものだからなのです。
学問をするとは、人文・社会科学系の場合、ただ知識を獲得することではなく、社会のなかで生きてゆくということを前提として、自己や人間や社会や歴史とは何かという認識にかかわる営みであることをまず頭にとめておいてください。
「わかる」ということは「知る」ということとは違います。 「知る」ということは、文字情報を使って何かを頭のなかにインプットすることです。 ですから、本を読んだり、人と話をしたりして「知る」ことはできます。 しかし、本当の意味で「わかる」ということは、何か思考のプロセスを自分でもう一度追体験することで、つまり、自分の頭で考えるということです。 自分で自分なりに再構成するといえばよいでしょうか。
学問は、本当は、「教わる」ものではなく、「学ぶ」ものなのです。 もっといえば、「学び」かつ「問う」ものです。 自らの「問い」を立て、そのために「学び」、そして思索を深めることです。
日本の学問というのは、日本人が自分のなかに日本人の宗教観や歴史観、美意識があることを見出して、それを「知」というものの拠点にすることから始めるほかないでしょう。 学問には「故郷」はどうしても必要なのです。
改訂版<学問>の取扱説明書 仲正昌樹 作品社 2011-04-23 法学類学者 仲正昌樹氏の言葉。
「学問に対する過大な期待」というのをもう少し具体的に言うと、「特定の学問を学ぶことによってすごい人になれるかのように勝手に思い込んでいること」である。 例えば、「哲学を学べば、理性的な思考法を身に付けることができる」とか、「社会学を学べば、社会の現実を知ることができる」、「法学を学べば、法的に正しい判断ができるようになる」といった調子で。 端的に言って、これらは「幻想」である。 学問には、古典芸能とか武術の免許皆伝のようなものはない。 学問は、「常に探究し続ける」ものである。 「哲学」にせよ「社会学」にせよ「法学」にせよ、その学問分野を「究めて」、達人や名人になることなどありえない。
学問の技法 橋本努 ちくま新書 2013-01-09 経済思想・政治哲学・社会理論学者 橋本努氏の言葉。
学問は、あなたの「志」や「野心」をはぐくんでくれるだろう。 およそ大学生が抱く「志」や「野心」の多くは、小さなものばかりでつまらない。 ところが学問の快楽を味わえは、「志」や「野心」は、もっと大きなものになって、あとから付いてくる。 だからまず、学問の快楽を「味わう」ことが先決である。 学問を通じて、人は、大きな志や野心を抱くようになる。 人生の先が見えず、迷っているあなたにこそ、学問を手にしてほしいのである。
大学入試や資格試験のための「勉強」は、「知識を詰め込むための機械的な作業」であって、学問とは言えない。 「勉強」とは、「ある問いに対する答えを学ぶこと」である。 これに対して「学問」は、「答えの確定していない新たな問いを発すること」である。 「勉強」は、「既存の問いから、確定した答え」とすすむのに対して、「学問」は反対に、「既存の答えから、新しい問い」へとすすんでいく。
「知の技法」入門 小林康夫 大澤真幸 河出書房新社 2014-10-15 社会学学者 大澤真幸氏の言葉。
人は、何もなしで考え始めたりはしない。 でも、何か衝撃的な出会いがあると、人は考え始める。 考えないでいること自体が不可能になります。 その考えるということは、ある意味で苦しいのですが、その苦しみをも含んで、究極的には、大いなる歓びです。 そういう思考へと人を誘い、強制さえする衝撃的な出会いの、最も重要な源泉は、本なのですよ。 本を読んで、衝撃を受けて、感動して、そして、やむにやまれぬ気持ちで思考する。 そういう経験が一度もない人は、僕から見ると、かなり不幸です。 少なくとも、恋愛を一度もしたことがない、というのと同じくらい、気の毒な気がします。 よい本と出会い、夢中になって読むということは、恋愛と同じくらいに、ワクワクする。
学問の現状を考えると、一見矛盾する二つのことが起きてます。 まず、ものすごい専門化ということが起きています。 第三者には隣どうしにしか見えない学問分野同士が「あいつと俺は専門が違うから理解できない」みたいに意志疎通さえ難しくなっている。 つまり、学問の細分化がすさまじい勢いで進んでいる。 しかし、他方で、学問分野の交流や融合も、やはりどんどん進んでいる。 一つの主題について徹底して探究していくと、学問の分類はあまり意味がないということがはっきりしてくるからです。 そうした中で、最も大きな知の分類、つまり文科と理科の分割すら無意味なものになってくる。
なぜ知りたいかというと、究極的に言えば、己のことを知りたいということがあるんじゃないでしょうか。 己とは何かが知りたい。 だから「知るということを知る」ということが究極の「知る」なんですよ。
いかがだろうか? いいことを言っていると思う。 なんだか、学問したくなってこないだろうか?
学問に精通していない僕が言うのも変かも知れないが・・。(苦笑)
でも幸いなことに、本・学術書は、誰が読んでもいいのだ! そういうわけで、僕はこれからも読書を続けるつもりである。
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僕は、これからも読書量を増やして、少しでも小ネタを得ていきたいと思っている。
Learming is Good.
Taka
Writer : GAKUTAME LEARNING Media(GLEM)Organizer Takayuki.M